【東松戸の歴史】航空写真で辿る50年の変貌|農村から交通の要衝へ
本記事では、千葉県松戸市の東部に位置する東松戸エリアの約半世紀にわたる変貌の歴史を、航空写真という客観的な視点から紐解きます。
かつて「紙敷(かみしき)」地区と呼ばれたこの地は、梨畑や雑木林が広がるのどかな農村でした。しかし、1970年代以降の武蔵野線、そして1990年代の北総線の開通を契機に、街は大きな転換点を迎えます。
特に、1987年から約30年間にわたって行われた「紙敷土地区画整理事業」は、現在の整然とした街並みの礎を築きました。二つの鉄道路線が交差する交通の利便性と、計画的な街づくりによって生まれた快適な居住環境は、多くの人々を惹きつけ、東松戸を活気あふれる現代的な郊外都市へと成長させました。
東松戸の現在を知る住民の方々はもちろん、これからこの街を訪れる方々にとっても、街の成り立ちを知ることで、新たな発見と深い理解が得られるでしょう。
はじめに:東松戸 – 空から見つめた街の軌跡

JR武蔵野線と北総線(成田スカイアクセス線)が交差し、都心や成田空港へのアクセスも良好な千葉県松戸市の東の玄関口、東松戸。駅前には商業施設や高層マンションが建ち並び、整然とした街区には多くの人々が暮らしています。しかし、この現代的で便利な街並みが、わずか半世紀前には全く異なる風景だったことを想像できるでしょうか。
本稿では、千葉県松戸市東部に位置する東松戸地域が、過去半世紀以上にわたり、いかにしてその姿を変えてきたのかを、あたかも空から眺めるように辿っていきます。かつて紙敷(かみしき)地区を中心とした農村風景が広がっていたこの地は、今や多くの人々が暮らし、交通の要衝として賑わう現代的な郊外都市へと変貌を遂げました。
この劇的な変化の物語を解き明かす鍵は、国土地理院が提供する航空写真の記録です。幸いなことに、国土地理院のウェブサイト「地図・空中写真閲覧サービス」では、誰でも過去の航空写真を閲覧でき、東松戸の変遷を実際にその目で確認することが可能です。
本記事では、これらの貴重な記録や歴史的事実に基づき、各年代の航空写真に写し出された東松戸の景観を記述していきます。読者の皆様には、眼下に広がる数十年の変化を想像しながら、この街のダイナミックな発展の歴史を追体験していただければ幸いです。
東松戸発展の年表:変革の足跡
東松戸の街並みが大きく変化するまでには、数々の重要な出来事がありました。以下の年表は、その主要な画期をまとめたものです。この年表を念頭に置きながら各時代の解説を読むことで、より深く街の変遷を理解することができるでしょう。
年代 | 主要な出来事 | 意義・影響 |
---|---|---|
1960年代 | 主に農地・森林が広がる(紙敷地区) | 原風景の形成 |
1973年 | 武蔵野線(府中本町~新松戸間)開通 | 広域的な交通網の変化、将来的な開発の布石 |
1978年 | 武蔵野線(新松戸~西船橋間)延伸開業、全線開通 | 首都圏の環状鉄道網が完成 |
1987年1月 | 紙敷土地区画整理組合設立認可 | 東松戸駅周辺開発の本格的な始動 |
1990年10月 | 紙敷土地区画整理事業着工 | 大規模な造成工事の開始 |
1991年3月31日 | 北総開発鉄道(現・北総鉄道)東松戸駅開業 | 地域住民の新たな足の確保、駅周辺開発の核となる |
1998年3月14日 | JR武蔵野線東松戸駅開業、駅名が「紙敷」から「東松戸」へ | 2路線の乗換駅となり利便性向上、駅周辺開発が加速 |
2007年 | 東松戸アルフレンテ(駅直結型複合商業施設)開業 | 駅前の賑わい創出、生活利便施設の充実 |
2010年7月17日 | 成田スカイアクセス線開業、アクセス特急停車開始 | 成田空港へのアクセスが飛躍的に向上、広域的な拠点性が強化 |
2012年2月24日 | 紙敷土地区画整理事業の換地処分完了 | 計画的な街区の完成、土地利用の安定化 |
2016年7月19日 | 紙敷土地区画整理組合解散 | 約30年にわたる開発事業の完了 |
2018年1月 | 東松戸ショッピングセンター竣工 | 新たな商業核の誕生 |
2021年4月 | ひがまつテラス(公共複合施設)オープン | 公共サービス・コミュニティ機能の充実 |
この年表が示すように、東松戸の発展は鉄道路線の延伸と駅の開業、そして大規模な土地区画整理事業という二つの大きな車輪によって力強く推進されてきました。これらの出来事が、どのようにして風景を変えていったのか、時代を追って見ていきましょう。
変わりゆく風景:航空写真で見る東松戸の各時代
1960年代(昭和36年~昭和44年):緑豊かな農村の広がり

1960年代の東松戸駅周辺、当時の地名で言えば紙敷や高塚新田一帯の航空写真には、見渡す限りの田園風景が広がっていたことでしょう。広大な水田や野菜畑がモザイクのように連なり、特に松戸市の特産品でもあったネギやダイコン、カブ、キャベツなどが栽培されていました。また、この地域には梨園も多く、「二十世紀梨」発祥の地である松戸市らしく、観光梨園として知られた場所もあったと記録されています。
集落の周辺や台地には「ヤマ」と呼ばれる雑木林が広がり、薪炭や堆肥の供給源として人々の生活を支えていました。土地台帳には「林畑」という地目も存在し、これは畑作には適さない傾斜地などを林として利用していたことを示唆しています。集落は、家ごとに畑、屋敷地、そしてヤマと呼ばれる林が一区画となる「短冊状」の地割りを特徴とする場所もありました。
道は舗装されていないものが多く、曲がりくねった小道が田畑や集落を縫うように走っていたと考えられます。この時点では、後の東松戸の風景を決定づける鉄道路線はまだ影も形もありません。
当時の紙敷村には、江戸時代の文化2年(1805年)に遡る「庚申待講帳」が残されており、古くからの農村コミュニティが息づいていたことがうかがえます。松戸市立博物館には昭和30年代(1955年~1964年)の団地での暮らしが再現されていますが、これは常盤平団地など、より都市化が進んだ地域のものであり、同時期の東松戸周辺は、より牧歌的な風景が広がっていたと推測されます。
この時代の東松戸は、まさに都市化の前の、豊かな自然と共生する人々の暮らしが営まれていた「原風景」と言えるでしょう。この穏やかな風景が、後の数十年間で劇的な変貌を遂げることになります。
1970年代(昭和49年~昭和53年):武蔵野線の開通と風景の変化の兆し


1970年代に入ると、東松戸地域の風景に最初の大きな変化をもたらす出来事が起こります。1973年(昭和48年)に国鉄武蔵野線が府中本町駅から新松戸駅まで開通し、さらに1978年(昭和53年)には西船橋駅まで延伸開業して全線が開通しました。この時期の航空写真には、それまでの田園風景を南北に貫くように、武蔵野線の真新しい線路が一本の帯となって写し出されています。
しかし、この時点ではまだ武蔵野線に東松戸駅は設置されていませんでした。そのため、電車はこの地域を通過するだけであり、住民にとっての直接的な利便性向上には繋がっていませんでした。それでも、この巨大なインフラの出現は、将来の発展を強く予感させるものでした。
武蔵野線は当初、山手線の貨物輸送の負担軽減と首都圏の物流改善を大きな目的として建設されました。旅客輸送も行われ、同じ松戸市内では新松戸駅が1973年に武蔵野線と常磐線の乗換駅として開業し、駅周辺の開発が急速に進み始めていました。このような他の地域の変化は、将来の東松戸の姿を暗示していたと言えるでしょう。
この時代の東松戸は、まさに主要な鉄道路線が地域を「横切る」ものの、まだ直接的な恩恵を受けていない「通過点」としての性格を帯びていた時期でした。この物理的なインフラの存在が、後の駅設置や土地区画整理事業へと繋がる重要な伏線となっていきます。
1980年代半ば(昭和59年~昭和61年):開発前夜の静けさと高まる期待

1980年代半ばの東松戸周辺の航空写真には、1970年代末期と比較して、地表に劇的な変化はまだ現れていません。武蔵野線は既に風景の一部として定着し、その周辺も大きな開発が進展している様子は少なかったでしょう。
しかし、水面下では、来るべき大変革に向けた準備が着々と進められていました。この時期は、1987年(昭和62年)1月に設立が認可される紙敷土地区画整理組合の準備期間にあたります。広大な土地の権利関係の調整、事業計画の策定、地権者との交渉、測量といった、目には見えない膨大な作業が行われていたはずです。
また、後の北総開発鉄道(現・北総鉄道)の建設計画や、将来の東松戸駅の設置に関する議論も具体化しつつあった時期です。一面の畑や林が広がる風景は変わらずとも、その「手つかず」の様相は徐々に薄れ、計画的な都市開発の槌音が間近に迫っている、そんな期待と緊張感が漂う「変革前夜」の時期だったと言えるでしょう。航空写真だけでは読み取れない、こうした計画段階の動きこそが、その後の目覚ましい発展の礎となったのです。
1980年代末~1990年代初頭(昭和62年~平成2年):開発の槌音、変貌の始まり

1980年代末から1990年代初頭にかけて、東松戸の風景はついに目に見える形で大きく動き始めます。この時期の航空写真は、まさに農村から都市へと変貌を遂げる最初の段階を克明に記録しています。
最大の動きは、1987年(昭和62年)1月に組合設立が認可され、1990年(平成2年)10月に着工した紙敷土地区画整理事業です。この事業は、東松戸駅を中心とした約45.6ヘクタールに及ぶ広大なエリアを対象としており、航空写真には、従来の田畑や林が切り開かれ、ブルドーザーなどの建設機械が活動する様子が写し出され始めた時期です。古い農道とは対照的な、計画に基づいた直線的な新しい道路の骨格が、まるで大地に引かれた設計図のように現れ始めました。
時を同じくして、北総開発鉄道(現・北総鉄道)の建設も進められていました。1991年(平成3年)3月31日に開業する東松戸駅の駅舎や高架橋などの構造物が姿を現し、新たな鉄道路線が地域を東西に貫く様子も航空写真から確認できます。
紙敷土地区画整理事業は、「紙敷地区が新しい生活圏(市東部地区)の中核をなす魅力的な街になるために」というまちづくりの基本方針のもと、計画人口4,560人、総事業費306.4億円という壮大なスケールで進められました。この時期は、長年の計画が実行に移され、東松戸が新たな都市として産声を上げる、まさに「地固め」の時代でした。二つの大きな開発事業が同時に進行することで、相乗効果を生み出し、街の骨格が急速に形成されていったのです。
新しい千年紀の拠点(2008年/平成20年):二つの駅が織りなす街の完成形

2008年(平成20年)の東松戸を空から見下ろすと、そこには1980年代とは比較にならないほど劇的に変貌を遂げた、近代的な郊外都市の姿が広がっています。
最大のランドマークは、二つの鉄道路線が交差する東松戸駅です。1991年に開業した北総線の駅と、1998年(平成10年)に開業したJR武蔵野線の駅が一体となり、乗換駅としての機能を発揮していました。JR駅開業と同時に供用が開始された駅前ロータリーは、街の玄関口として整備され、バスやタクシーが発着する活気ある空間となっていました。
1987年に始まった紙敷土地区画整理事業は、2012年の換地処分完了に向けて最終段階に入っており、整然と区画された街路網と、その中に計画的に配置された住宅や商業施設が航空写真からも見て取れます。
駅前には、2007年(平成19年)に開業した複合商業施設「東松戸アルフレンテ」が威容を誇っています。この施設にはスーパーマーケット「マルエツ」や銀行、クリニックなどが入居し、住民の生活利便性を大きく向上させました。
住宅開発も飛躍的に進み、「グランマークス東松戸」(2008年竣工)といった大規模マンションが建設され、新たな住民を迎え入れました。区画整理によって生み出された整然とした宅地には、新しい戸建て住宅も数多く建設されていました。
注目すべきは、JR武蔵野線の東松戸駅が、地元からの要望を受けて設置された「請願駅」であり、その費用負担を紙敷土地区画整理組合が行ったという事実です。これは、地域住民や地権者が主体となって街づくりを進め、必要な都市インフラを誘致した好例と言えます。この官民一体となった取り組みが、東松戸の発展を大きく後押ししたのです。この時期の東松戸は、数十年にわたる計画と建設の努力が結実し、交通の利便性と生活の快適性を備えた、活気ある郊外拠点としての姿を確立したと言えるでしょう。
継続的な成長と成熟(2014年/平成26年):定着した郊外都市の姿

2014年(平成26年)の東松戸の航空写真には、2008年からさらに成熟度を増した郊外都市の姿が写し出されています。大規模な開発の骨格は既に完成しており、この時期の変化は、よりきめ細やかな「肉付け」と「成熟」が中心となっていたと考えられます。
紙敷土地区画整理事業は2012年(平成24年)に換地処分が完了し、事業主体であった組合も2016年にその全事業を完了して解散しました。2014年の時点では、区画整理によって整備された街区内の空き地がさらに減少し、新たな戸建て住宅や集合住宅が建設され、街の密度が高まっていたと推測されます。以前に植えられた街路樹や公園の緑は一層豊かになり、街全体に落ち着きと潤いを与えていたことでしょう。
交通面では、2010年(平成22年)7月に開業した成田スカイアクセス線の影響が定着し始めていた時期です。東松戸駅はこの路線のアクセス特急の停車駅となり、成田空港へのアクセスが飛躍的に向上しました。これにより、東松戸の交通拠点としての価値はさらに高まり、新たな住民やビジネスを惹きつける要因となったのです。
この時期の東松戸は、大規模な造成やインフラ整備といった「創造」の段階から、既存の都市基盤を活かしつつ、生活の質を高めていく「成熟」の段階へと移行していたと言えます。
現代につながる街並み(2019年以降):利便性と快適性が調和したコミュニティ

2019年(令和元年)以降、現在に至る東松戸を空から見ると、そこには成熟し、活気に満ちた現代的な郊外都市の姿が広がっています。
この時期の新たなランドマークとしては、2018年(平成30年)3月に竣工した「ファインシティ東松戸モール&レジデンス」が挙げられます。食品スーパー「ベルク」を核テナントに、ファッション、雑貨、飲食店などが揃うこの大規模商業施設は、地域住民の買い物利便性を一層向上させ、新たな賑わいの核となっています。
さらに、地域コミュニティの拠点となる施設も充実しました。2021年(令和3年)には、東松戸地域図書館、松戸市役所東松戸支所、青少年プラザを併設した複合施設「ひがまつテラス」がオープン。行政サービスから文化・交流活動までをワンストップで提供する、新しい街の顔となりました。
住宅開発も継続的に行われ、2024年には大規模マンション「サングランデ東松戸」が竣工するなど、新たな住民を迎え入れ続けています。駅周辺ではペデストリアンデッキの整備も進み、歩行者の安全性と回遊性が向上しています。
松戸市全体としては「子育てしやすい街」としての評価も高く、東松戸エリアもその恩恵を受ける魅力的な居住地として認識されています。
2019年以降の東松戸は、数十年にわたる計画的な都市開発とインフラ投資の集大成と言える姿を呈しています。しかし、都市は生き物であり、その発展が完全に止まることはありません。新たな施設の建設や整備は、成熟した郊外都市であっても、住民のニーズや社会の変化に対応してダイナミックに進化し続けることを示しています。
まとめ:未来へ続く東松戸の物語
東松戸の半世紀にわたる変貌の旅を、空からの視点で辿ってきました。かつては梨畑や雑木林が広がるのどかな農村地帯であったこの地は、今やJR武蔵野線と北総線・成田スカイアクセス線という二つの重要な鉄道路線が交差し、多くの人々が暮らす活気ある郊外都市へと劇的な変化を遂げました。
この目覚ましい発展の原動力は、二つの大きな柱に支えられています。
第一に、鉄道網の整備です。武蔵野線の開通、そして北総線の開業とJR駅の設置、さらには成田スカイアクセス線の乗り入れは、東松戸の利便性を飛躍的に向上させ、人々を惹きつける強力な磁力となりました。
第二に、そしてこれと不可分なのが、広範かつ長期にわたる紙敷土地区画整理事業の成功です。この計画的な都市基盤整備なくして、現在の整然とした街並みはあり得ませんでした。「駅前商業地の賑わいある空間形成と、緑豊かな環境整備との調和」といった、まちづくりのビジョンは、着実に具現化されたと言えるでしょう。
東松戸の物語は、単なる物理的な変化の記録ではありません。それは、地域の将来像を描き、困難を乗り越えながら計画を実行に移していった人々の努力の物語でもあります。
航空写真という「空の目」を通して見えてくるのは、過去から現在へと続く、この街のダイナミックな生命力です。東松戸はこれからも、時代の変化に対応しながら、そこに住まう人々にとってより魅力的な街へと進化を続けていくことでしょう。地域の歴史を理解することは、私たちが今生きる場所への愛着を深め、未来を考える上での貴重な示唆を与えてくれます。